日記

日記 6/5

 

散歩というものは非常にいい。暇つぶしになるし、運動になるし、音楽がより良く聴こえる。

昼の散歩もまた一興だが、この時期は暑くてかなわない。夏の散歩といえば夕方か夜、深夜である。それぞれにそれぞれの良さがある。夕方は夕焼けが良い。夜は無論良いが、深夜は静かで、異世界にでも迷い込んだような雰囲気を醸し出している。

今日は昼に起きて、寝転がりながら本を読んでいたら19時になってしまっていた。気温が丁度良かったので、散歩に出ることにした。さっきまで読んでいたエッセイをポケットに放り込んで、イヤホンをつけて家を出る。vaporwaveを聴く。

空がとても綺麗だった。雲が太陽光線を反射し、紅く燃えている。

本来の太陽光は殆ど白色である。昼間は直上から降り注ぐ太陽光だが、夕方になると斜めに長く大気中を通って届く。大気中を長く通ることで波長の短い光は散乱し、最後に波長の長い赤い光だけが残る。レイリー散乱とかいうやつである。

それだけの話ではある。だが、夕焼けには人の心を動かす異様な力がある。なぜだろうか?

あまりにも綺麗なので立ち止まってしまった。再び歩き出し、できるだけ広く空を見るために早歩きで歩道橋に向かう。

空、ことに夕焼けは無常の最たるもので、10分もすればすぐに姿を変えてしまう。急がなければならない。

歩道橋を登る。やはり美しい。気分が良くなったので、歩道橋の上で本を少し読む。田舎なものだから誰も来ない。田舎は良い。人が多いところでは散歩もできぬ。都会では空はビル群の形に切り取られてしまう。

歩道橋の手すりには近くの小中学生が石で刻んだのだろう落書きが一面に書きつけられてある。悪口や相合傘であるとか、「ズッ友」「H24.〇.〇」といった他愛もないものだ。平成24年。私は小学2年生だろうか、平成、かつて存在したあの日々。もう戻っては来ないあの日々。

歩道橋からは例の小学校、中学校、あと近所の高校とが一望できる。風が涼しい。高校は別だが、私はこの小学校と中学校に通っていた。

小学校を眺める。昔あそこには大きい砂の山があった。校舎の柱はあんな色ではなかった。昔あそこで転んでケガをした。あいつらは元気にしているだろうか。ノスタルジーが体を飲み込んでいく。

高校での記憶は新しいものだ。今もまだ生き生きと思い返される。しかし、中学生、ことに小学生の記憶は、遠い昔のものである。あの日々は過ぎ去って、もう戻っては来ない。小学生のある時から、私の人生はずっと過去への憧憬に支配されていた。現実がいかに良かろうと、過去はその何百倍も輝いて見えた。もう戻っては来ない過去。今のこの現実も、過去になる事など分かりきっているにもかかわらず。そういう問題じゃないんだ。

歩道橋を降りる。この道はかつて通学路だった。あそこには昔木があって、ここの裏を友達とふざけて通っていた。ここの白い線だけを通って帰っていた。違う日には影だけを通って帰った。ポケモンの話をしながら。

ノスタルジーに殺される。ここのところ毎日こんな調子である。いつからだろうか。

過去はいつでも輝いて見えた。「今」は醜い。輝いていない。いくら楽しくても、うまくいっていても、今は過去ではない。

あの日、初めて小学校に行った日、この道を一人で通った。あの時はここのタイルは割れていなかった。小学四年生のときに割れて、小学6年生のときにモルタルで補修された。

あいつと話しながらここを通った。あいつはどうしているだろう。連絡先は知らない。

過去は増えていく一方だ。幼稚園は既に過去だった。小学校は過去になった。中学校も過去になった。とうとう高校も過去になった。過去は輝いている。あの頃は東京オリンピックなんて遠い未来のことだと思っていた。高校数学をまさか高校で習う日が来るとは思っていなかった。外はもう暗い。帰路をひた歩く。自分の家だ。小学5年の時に引っ越してきた。あの日、地球の人口は68億人だった。周期表にはウンウンセプチウムがあった。京は世界一のスーパーコンピュータだった。過去はいつでも私の上に燦然と輝いている。もう戻っては来ないあの日々。どうしてなんだ

 

過去に帰りたい